駅路/最後の自画像

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大好きな作家、松本清張と向田邦子。

その二人が生涯で唯一クロスした作品である。二人のファンである私にとってはウハウハもので、早速アマゾンでオーダーしたのだが在庫がなく、やっと届いたのでしばし二人の世界に耽った。2時間もあれば読める本である。

「駅路」は昭和三十五年に書かれた45枚程度の短編で、何度もテレビドラマ化されている。確か昨年の松本清張生誕100年で各局で名作がドラマ化された時にもフジテレビで石坂浩二と深津絵里、役所広司のキャスティングで最新の「駅路」が描かれた。「砂の器」とか「ゼロの焦点」とか、清張作品は社会問題を背景にした長編が有名だが、「駅路」のようにごく普通の人々の心理や日常の闇を描いた短編も面白い作品がたくさんある。

まじめに停年まで勤め上げた銀行員が停年した翌日に蒸発し、その行方を探ると銀行員の知られざる素顔に辿り着くというストーリー。ベテラン刑事と若い刑事が残された旅行の記録やアルバムを手がかりに、銀行員が地方の支店で知り合った女性行員と密かに愛を育んできたことをつきとめる。会社や家族への奉仕を終えた55歳の男が、停年後、これまた男の噂ひとつもない地味なハイミスと新たなスタートを切るはずだった。ところが5年あまりの交際期間中、ずっと二人の連絡係だったいとこ夫婦に最後にハメられ、二人は遂に夢を果たすことなく命を絶たれるという切ない物語である。

今の時代にあてはめても少しも古くささも感じられないテーマである。話に奥行きを持たせるのがゴーギャンの絵。ゴーギャン自身も人生半ばで妻子を捨て、自由を求めて楽園タヒチへ移り住んだ画家である。

原作はもう少しもどかしさも欲しいくらい、サラリと読めてしまう。それだけにさまざまな要素が濃縮されたストーリーだと思う。結構普遍的なテーマが横たわり、突っ込みがいのある登場人物の関係性や人々の心理といった具合に、ドラマ化するにあたっても脚色の種がたくさん散りばめられている。

に、しても、やはりこの人の料理の腕は相当はすごいのである。

私は原作を読んだ後、しばらく考えてみた。自分だったらどんな脚本にするだろうか、と。しかし読み進めていくと、自分のお粗末な創造力を思い知らされてしまう。向田邦子は原作を脚色することを嫌う脚本家だったそうだが、この「駅路」に関しては例外だ。原作では銀行員と愛人両方が殺されるのだが、愛人だけを生き残らせるという大胆な発想。タイトルも駅路→最後の自画像と変えてしまうし、銀行員の奥さんと愛人が対峙するというハラハラドキドキする場面までも作ってしまうのだ。

私が印象的だったのは、原作では銀行員も愛人も、二人の付き合いの痕跡をまるで残さないのだが、向田邦子の脚本では女の方にこれを残す。カメラと旅行が趣味だった銀行員の家には旅先の風景だけを映したアルバムがある一方、愛人宅にはセミヌードのような大胆なカットも含めて、その女性を撮った写真がたくさん残されている。それらの写真は二人の生々しい関係を映し出すとともに、向田邦子自身の恋を蘇らせた。

若かりし頃の彼女の写真は、女優でもないのにどう見てもプロが撮ったとしか思えないようなものが随分残されている。そして被写体の彼女はとても美しく艶っぽい。向田邦子自身の妻子あるカメラマン男性との悲恋は今ではよく知られているが、その彼が撮影したものだろうと思われる。写真からはそういう色気が漂っている。

あんな一瞬が、深い仲の男女なら誰しもあったはず。

原作では淡い大人の恋愛という感触しか残らないが、脚本ではこれがある種の熱を持って伝わってくる。松本清張作品を読んでいる限り、おそらくご自身がそうそう恋愛や男女の機微にたけていた人とは思えないが、向田邦子の手にかかってそういう男女の機微や女の心の裡がプラスされて、鮮明に男と女の感触を残すリアルな物語になっている。

この本の帯には「清張がニヤリと笑った、自作「駅路」の大胆な脚色。人生の岐路に立っていた向田自身のドラマ」とある。岐路に立ったというのは、この脚本を書く前に向田邦子は乳がんの手術をし、輸血がもとで肝炎になったりと、若い頃から疾走してきた人生で初めて死に直面し、自らの人生を振り返ることをしたという。そういう時期だっただけに、蒸発する銀行員、寸前で駆け落ちを留まる愛人、夫の裏切りを知る夫人、事件を追うべてらん刑事などなど、登場人物のそれぞれに彼女の魂が注がれているような気がする。

この本は、どちらかというと松本清張原作の見事な脚色という向田邦子という人の才能を見せつけられる内容なのだが、逆に脚本で旅をしたからこそ原作が持つ素晴らしさにも立ち帰れるという、1冊で2度おいしいファンにとってはたまらない本なのである。

ある意味、名コンビではないかと思われるこの二人。もっともっと競演を見たかったものだが、残念なことにお二人とももうこの世にはいない。

松本清張はたくさんの作品を残してくれたのでまだしも、20歳も上の清張より早く逝った向田邦子の死はやはり悔やまれてならない。今はただ残された作品を何度も何度も辿るしかない。それでも何度読んでも飽きない、感嘆させられる向田作品。生きていたら今頃、一体どんな作品が読めたのだろうか・・・

あ〜、悔しい・・・

久々に向田邦子の名のついた新刊を読んで、改めて悔しさがこみ上げてくるのである。


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愛の幻滅&中年前夜

昔の文庫本がどんどんリメイク再版されたり、全集が出たり、最近田辺聖子氏は着々と何かの準備を始めているようにも思えるbook

でもやはり大作家は違う。既に文庫本として出ている本だが、リメイク(といっても表紙と文字の大きさ)して出版されると、また今の時代の新しい読者をつかんでしまうのだheart04 時代背景やファッションなどにかなりの違いはあっても、それだけ普遍的な小説であるということだ。

私は彼女の作品は古典以外、ほとんど読んだと思っていたら、この「愛の幻滅」はなぜか読みのがしていた。久しぶりに田辺聖子の小説を手に取るシアワセな気分と共に、下巻に渡る長編を一気に読んでしまった。そしてやっぱりこう思う

「普遍的やな〜」ってhappy02

この小説は昭和52年に、女性誌で一年間連載されたそうだから、もう30年以上も前のものだ。3つ年下でも世代間ギャップを感じるキョービ、30年経ってもひとつも色あせない小説ってすごいsign03 しかもOLと妻子ある中年男とのラブロマンスって、今でも昔でもそこらへんにありそうな話だが、そんなよくある話でも田辺聖子にかかったら、極上の逸品に変えられてしまうheart04

田辺作品には多くの「ハイミス」主人公が登場する。
で、この本の主人公眉子も30前で、今ではそんな歳でハイミス扱いされないが(ってゆーかハイミスって言葉も死語??)、当時としてはリッパなハイミス。そのハイミスと、お聖さん曰く矛盾と混迷に満ちた愛すべく中年男との恋愛。一見ドロドロしそうなスープの中身を、さり気なく酸味を効かせてさっぱりと仕上げ、なのに心温まるみたいな・・・そんな味はちょっとやそっとでは出ないnoodle

一方甘粕りり子の「中年前夜」という、もうタイトルからしておどろおどろしい小説を前後して読むと、同じハイミス(といっても「中年前夜」はまさにアラフォー世代のハイミス)小説でも、このような後味が違うものかとそのギャップに驚愕してしまうのだeye こちらのスープは、人生の退廃やら孤独やらひずみやらが出汁ととしてスクランブルしており、後々まで苦味がひきずるような味わいである。3人の女性主人公は、契約編集者でエログラビアばかり担当している蘭子、美容整形外科の事務長で院長の愛人の夕子、主婦生活に疲れた真澄と、登場人物の設定からしておどろおどろしい・・・shock

彼女らの生活ぶりや心もようが、時に目をつぶりたくなるほど丹念に描かれていて、その筆致には圧倒される。しかし「愛の幻滅」の眉子がドライで楽しい「笑い恋」ならば、「中年前夜」の夕子の場合は「沈痛恋」で、つながっている限り痛みを伴う、みたいな、泥沼に足を取られて身動きできないって感じのドロドロ感なのであるgawk

この2つの本の主人公達は対照的だが、なんといってもその違いは人生の主導権を自分が握ってるかどうかではないかと思う。眉子はさして美人でもなく、高給取りでもないが、仕事を楽しみ、恋愛を楽しみ、決して分相応以上の贅沢も望まない。そして中年男との恋愛にはまっても、決してなし崩しくずしにはならない賢さがあって、いつだって自分をハンドルできてるところが天晴れなのだ。

一方「中年前夜」の女子は、年齢やそれぞれの境遇にも巻き込まれていくばかりで、自分で自分の人生に主導権が持てない(最後でちょっと変わるが)、そんなもどかしさや不安や弱さが痛いほど感じられる。それは誰にでもあることで、むしろそういう痛みになんら「甘さ」を加えずに目を向け、リアリティだけで書き上げたこの本はそれはそれですごい。田辺聖子の本には真実があふれているが、甘粕りり子の本には「事実」が丹念に編み込まれている。

どっちも心を素通りしていくような作品ではないheart02


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美しい日本男子

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伊集院静の「羊の目」と、白石一文の「心に龍をちりばめて」。
どちらも私が大好きな作家の本だが、二作とも伝えるところは全く違うが、偶然にも共通していることがある。それは主人公がヤクザくずれということ。そしてどちらも見事な入れ墨を背中にしょっており、小説の中のキー的存在になっているところ。そしてどちらも"美しい日本男子"が描かれている。

"くずれ"というのは、「心に龍をちりばめて」では女性の主人公ともう1人の主人公が元ヤクザ。「羊の目」では主人公が「俠客(きょうかく)」という、限りなくヤクザに近いと思われるカテゴリーに属している。

「俠客(きょうかく)」を辞書で引くと、

強気をくじき弱気を助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴に起源。多くは賭博・喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。おとこだて。

とある。強気をくじき弱気を助けるなんかスーパーヒーローのような人のようだが、"たてまえとする"という表現が微妙である。こういう方々には出会ったことがないし、もはや任侠の世界はほとんど途絶えたともいえる現代に生きる私にとっては今ひとつ実感がわかないが、小説中でも「ヤクザではない、俠客だ」という台詞が何度も出て来るから、よほど俠客という種類の人間の存在感や価値を伝えたかったに違いない。

今時はこんな世界流行らないのかもしれないが、私は大好きである。特に伊集院静は今までの本を読んでもそうだが、任侠の世界の男の美学にすごく執着しているように思われる。男の器量というのはどういうところで決まるのか、ハッキリした定義を持っている人である。そしてそんなイイ男には必ず孤独感や切なさがつきまとい、後を引くその情感がために男の印象がさらに深く染み入るのだ。

孤独と切なさという点では、「心に龍をちりばめて」も負けてはいない。
ヤクザくずれの男の宿命といい、過酷な人生の中においても失われないキモチの純粋さといい、涙を誘うところは多々ある。そして私がいつも白石一文作品に共感するのは、世の中のメジャーな部分で輝いている人ではなく、片隅で生きている人のかけがえのなさ、ひたむきさみたいなのが伝わってくるところだ。

白石作品には美人の主人公というのがよく登場する。
今回の本も誰もが振り返るような美人なのだが、そういうことに決してのぼせず、ふりまわされず、内面がしっかりしている。他の作品にも垣間見えるが、きっとこれは作者の抱く女性像の理想(あるいは好み)なのかな〜と思ったりする。なぜならこの小説の中でも、主人公がそないに美人である必要は全然ないように思うからだ。美しい女性と強くやさしい男性のマッチング。辿り着けばそんな着地点なのだが、後半読み手もどこかでそれを望んで叶えたいという思いがいつの間にか並走していて、最後まで一挙に読ませるところはサスガ!さらに言うと、絶対ハッピーエンドにならないと思っていたのに最後は不意にうれしかった。今回の作品では読ませるテクニックというのもとても感じた。

予想通りハッピーエンドにはならないのが伊集院作品。
読後感にも切なさが残る。が、この作品、私としては面白かったのは前半。後半はあまりにも展開が速いのと、あまりにハナシがエスカレートしまくりでちょっとついていけない。無理矢理ハナシをつなげすぎ、という感も否めない。けれども前半の夜鷹のハナシとか、俠客の世界のハナシとかはとても面白くてワクワクした。特に私は夜鷹と破壊僧の妖しげな関係がすごく印象的で、なんか鮮やかに映像として頭に浮かんできた。

このハナシには俠客という親分子分の生き方と対比して、宗教が登場する。何かにすがってしか生きて行けないというのが人間の運命なのか、そんな象徴だったのだろうか。しかしすがるものを間違えば、自らを破滅へ追い込んで行くことも避けられない。人間、純粋であればあるほど、宗教や運命に揺さぶられていくのだろうか。後半ハナシはどんどん飛躍していくが、最後にはただ主人公のあまりにも哀しすぎる運命が残る。

続けて呼んだ二作。
やっぱり哀しい運命でも報われる白石作品に今回は軍配!


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「エリカ」 小池真理子

小池真理子の作品を久々に読んだ。
探していた本が売り切れていて、たまたま手に取った本を買ってみた。
エリカ、といっても沢尻エリカの自伝ではない、もちろん(笑)。主人公は41歳。「オフィス・エリ」という企画(イベント?)会社を立ち上げたばかりの、いわゆる都会のいい女。その女性が、親友の死後、親友の不倫相手だった彼とできてしまうというストーリー。

最初は親友の死によって、彼女の恋人だった人と接点ができ、口説かれてその気になっていくまでがスリリングに展開される。仕事ができて美しく、地位も手に入れたイケてる女エリカ。まったくその気もなかった親友のかつての彼氏、少し年上のナイスルッキングでお金持ちオトコ、湯浅にプッシュされていくというストーリーはいかにもありそうなハナシだ。

湯浅はこれぞ!とターゲットを定めたら、何のてらいもなく押しまくるなんだか石田純一を地でいくような男で、デキる女というのはまともにこられるとこういう男に弱いものだ。並の男ではなかなか近寄りがたいから、意外と口説かれ慣れていない。湯浅のようにお金持ちでイイ男にバンバンプッシュされると、割と容易く重心が変わってしまったりするものだ。

そこまでは読めた。
でも今更こんなソープオペラのようなストーリーで、300ページ以上も続く長編が持つはずもない。果たしてこの小説にはどんな展開が待っているのか、どんなエンディングが想定されるのか、読み進むうちに、そればかりが気になった。という意味ではそこらのサスペンス小説より、よほどスリリングだったかもしれない。

布石はあったが、そういう展開があったか...。正直言って予測できないストーリーではあった。
ここでふと思うのは、ひとつの恋愛のハナシであれば、大抵は愛情の情景や象徴的なシーンを切り取ったタイトルがつくはずだが、この本のタイトルは「エリカ」という主人公の名前。恋愛ストーリーよりも彼女の生きざまや人物像そのものに作者のメッセージがあるのだろうと思う。

カバーには「現代の愛の不毛に迫る長編」とある。
小説の中では「愛」だと思っていたものがそうでなく、そうではないところに「愛」が芽生えるところに何か暗示的なテーマを感じる。しかし「愛」に破れたからといって生活に大きな破綻をきたすわけでもなく、エリカ自身はこれまでと変わりなく再び歩き始める。そういうところに1人の大人の女性としての"揺るぎない自分"を感じると共に、「愛」なんて、なくても何不自由なく生きていけるってことも認識させられる。かといって愛情を求める気持ちは止む事はなく、差し向けられた「愛」は吟味するエリカ。自分自身の中に灯り続けている火種を消す事も、炎にすることもできず、そこだけを見るとくすぶり続けているように思える....。

地位や名誉より、本当の愛情を手に入れる事の方がよっぽど難しいということだろうか。
結局「愛」という課題の解答を見つける事はできず、またいつもの自分自身に戻っていくが、仕事のトラブルも、日常の孤独も、愛の不毛も同じように噛み砕いて逞しく生きる彼女の姿は清々しく、敗れても美しい。

敗れて無様になったら、もうそれは潮時ということである。

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死の本

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2冊の本はまったくアプローチの違う本だが、共通のテーマは「死」である。

仕事でなければきっと読んでいないであろう、寄藤文平さんの「死にカタログ」(笑)。
そのタイトル通り、彼がさまざまな角度から「死」について考え、自分なりに結論を出すまでのいろんな引き出しをあのユニークなイラスト入りで巧みに紹介される。民族や宗教などによって違う「死」の捉え方の他、死に方、死に場所、死のタイミングなどの統計的なデータから、歴史上の人物の死へ至るまでのストーリーだとか、とにかく「死」という壮大なテーマをいろんな切り口から考えてみるチャレンジがエライと思った。しかも決して深刻でなく、それでいてふざけているわけでもなく、難しいテーマをイラストという表現手段を使って興味深く広げている。

「死」というと、仏教の影響がある日本人などは死ぬと霊として成仏する、輪廻転生でまた別の生命体に生まれ変わるようになんとなく捉えられているが、それはあくまでの日本人の捉えられ方であって、世界には実にいろんな死の捉え方があるのが面白い。例えばパプアニューギニアの人達は、こちらの島で死んだら向こうの島で赤ちゃんとして生まれ変わると信じられていたり、ジプシーなんかは死んだら、その存在がそもそもなかったものと捉えられるのだそう。

「死」って誰も経験したことがないから(経験してたらこの世にいないわけで)、結局イメージの産物なのだ。デザインや広告というイメージを扱う仕事に携わっている以上、このテーマに挑まなければならないと寄藤氏は思っていたそうだ。「死」のカタログというよりは、「死」をテーマにした寄藤文平氏の表現力のカタログという気もする。

「永遠のとなり」は小説だが、「死」がたくさん登場する。
同僚の死、親の死、死のうとした人、死に脅かされている人などなど、身近にある「死」が人生に与えるさまざまな影響が丹念に描かれる。「死にカタログ」でも「死」というのは結局どう生きるかにつながることが結論づけられているが、まさにこの本でも死にふれることで、人間というのは強烈に「生」を認識するのだということがわかる。

ひと言で言うと、主人公と親友のあっちゃんとのやさしい友情物語なのだが、友情という言葉を使ってしまったら根も葉もないという感じ。二人とももう50近い年齢だし、いろんな挫折や病気と闘いながら故郷へ戻って生きているのだが、友情というよりはもっと生々しい人間同士の絆やつきあいが展開される。

あっちゃんという人が不思議な人なのだ。
母1人子1人の貧乏な生い立ちだが、頭脳明晰で東京の大学を卒業後銀行に勤めた後、コンサルとして独立。多くの経営者を助けたお陰で、故郷へ帰ってきた今でも彼らの恩恵で安泰な文房具屋を営んでいる。四度も結婚していて、さらに現在は家を出てまた別の女性と同棲中。かと思えば信心深く、年寄りの友達が多くて面倒見が良い。10年ほど前にガンに冒されたのだが、助かって死の恐怖と共に生きている。最後の設定はわかるが、なかなかこんな人も珍しい。作者はあっちゃんのキャラクターを通して何を伝えたかったのか・・・。

就職後すぐに亡くしてしまうのだが、母親思いでやさしい。母親だけでなく誰にでもやさしいからお年寄りの面倒をみたり、相談に乗っているうちに女性と同棲までしてしまう・・・。でも本当は内には激しさを秘めていて、世の中の不公平さや無情さに対して怒りを覚えている。一方主人公のせいちゃんは、会社の吸収合併、部下の自殺などが原因で鬱に陥り、離婚し、都落ちして今は故郷の福岡で病気と向かい合いながら細々と生きている。

あっちゃんの人生はいろんな意味で濃厚であり、内に秘めた激しさを力に変えて生き抜いてきたという感じがする。主体的だが、そのやさしさ故に開かれた人生という気がする。死の恐怖から逃れるために、誰かに心を寄せていくのか、死の恐怖というものが自分を何かから解き放つのか。死に向き合うことで生きることや、人が幸せになることへの渇望が感じられる。でもせいちゃんの方はなんとなく生きてきた結果、気がついたらいろんな不幸が押し寄せてきたという受け身な人生で、人間というものの弱さも痛感する。

ガン再発の恐怖に脅かされているあっちゃん、一生つき合って行かなければならない心の病と闘うせいちゃん。それでも一日一日生きていかなければならない人間というのは、哀しい宿命を背負った生き物なのだなぁと思う。でもそのやるせなさが人に温もりを与え、死を意識するからこそ生への執着がある。そして永遠とも思える一瞬があるから、限られた人生に立ち向かっていけるのかもしれない。白石一文氏が一貫して探求するテーマ「生きるとは何か」がこの本でも、あっちゃんやせいちゃんを通してさまざまに語られていく。

「死」や「生きること」という重いテーマ。そういう根源的なテーマを考えずに生きていける人生もあると思う。でも「死」ということや「なぜ人は生きるのか」というものを考えてこそ、生きた証があるのかもしれない。「死にカタログ」もそうだが、「死」というものを自分なりに考えてみてこそ生きることの意味や自分のスタンスもわかる。少なくとも自分の意志ではなくこの世に生まれ、「死」に向かって進んでいることは間違いない。自分の人生とはつくづく限りある時間なのだ。

この本の舞台は福岡市だが、生活拠点としてイオン香椎浜ショッピングセンターがしょっちゅう登場する。こういうオトコ二人の物語にあまりイメージしにくいし、ムードもなくて生活感がありすぎる。でもその違和感が狙いだったのかなぁと逆に思ったりもする。オフィスや飲み屋や、家庭といった場所ではなく、近代的な大型ショッピングセンターで待ち合わせたり、買い物をしたりするいい歳した男。現代社会に呑み込まれている男二人というか、羽をもがれた鳥というか、なんとなく物悲しい気がする。また都市の象徴、暮らしの拠点となるショッピングセンターに集まるたくさんの人達。個々の人生なんて一見埋没しているが、一人ひとりの人間にはそれぞれの確かな人生があるのだということも想像させられる。

だけどこの話は、男同士だから成り立つ物語なのだろうなぁと思う。女同士の友情ではこういう繊細さやるせなさは生まれない。
男というのはつくづく「Fragile」な生き物である。ヽ(`⌒´)ノ

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「眉山」を読む

雨音で目が覚めた日曜の朝。
梅雨まっただ中、厚い雲に遮られてほの暗いこんな日は、しとしとと降り続く雨音をBGMに本を読むのが一番の贅沢である。ベッドから起きあがりもせず手にしたのは「眉山」という本。薄くて字も大きめ、台湾旅行の行き帰りで読み終わるにちょうどいいのではないかと思って買っておいた本だ。さだまさしの本ってどうなんだろう、と訝りながらも映画の前宣伝で徳島が舞台という、そのローカル感にもなんとなく惹かれて手に取った。

でも結局旅の行き帰りは長編ミステリーの方を読み、一度もこの本を開かなかった。
それは正解だった・・・。

年を重ねる毎に涙もろくなっているのは承知しているが、なんか前半の方から涙が出てくることしばしば。空港の待合いロビーなどで読むにはちょっとはばかられる本だった。

「眉山」のあらすじはこうだ。
結婚できないとわかっている人の子どもを身ごもり、故郷を離れて徳島の地で豪快に生きた母親の最期を娘と周囲の人々が見守る話を、この地の魂ともいえる阿波踊りを伴奏にして語られる。眉山は徳島の街を見下ろす山。母の恋の記憶を象徴する山でもある。

いかにも泣かせるストーリーで少々鼻白んでしまうのだが、私はどういうところで涙腺が熱くなるかというと、このお母さん、龍子の生き様とキャラだ。ちゃきちゃきの江戸っ子特有の(ちゃきちゃきの江戸っ子に出会ったことがないのでホントは知らないが)気っ風の良さと売られたケンカは必ず買う勇ましさ。それに肝っ玉の据わった懐の深さと誰にも身分隔てなく扱う情の深さ。この性格で、いろんな場面で啖呵を切る場面が痛快でカッコイイのだ。痛快であると同時に、なんか涙を誘う。

権力の前にはひれ伏し、小さな憤りは飲み込み、不正があっても見て見ぬふりをし、生きていくということは往々にして波風立てずに暮らしていくことだとわきまえていくのが大人の良識だとすると、そうしたことに決して目をつぶらず後にも残さず、その場で対峙していく龍子の姿は天晴れとしか言いようがない。その上愛情を持って人々に接するところは、読む側にとってちょっと喧嘩っ早いマリア様のような存在に映るのだろう。

その気っ風の良さと潔さを伏線に、そのままの姿で自分の恋愛を成し遂げるというところに心動かされるところがあるのだと思う。

さだまさしの歌もそうだが、彼の本もセリフや展開にかなり芝居がかったところがあるのは否めない。けれど龍子のような女性、龍子のような生き様を描きたかった作者の気持ちは私なりに伝わったような気がしている。それを徳島というローカルな街を舞台に、阿波踊りという伝統をフックにしているところも上手く情感をそそる。目まぐるしい都会の暮らしの中で知らず知らず乾き、人と人との関係もどんどんドライになっている中、地方都市の長閑な体温を感じ、阿波踊りという伝統に息づく魂に触れ、愛情にあふれた龍子という人物像を読み解くうちに、一滴の潤いがもたらされたような気がする。1人の女性の生き方として、背筋を糺すようなところもある。芝居がかっていたとしても、複雑な恋愛のかけひきやクールな人間関係しか描かれない小説よりもずっとストレートに響く気がするのだ。

龍子が最後まで貫き通した愛のカタチ。

というのがこの本の主題なのだろう。でも大好きだった人との愛の結晶、娘だけを心のささえに、宝物のようにして生きてきた龍子の生涯をかけた美しい恋物語というよりも、むしろ恋人に代わって娘という愛情を注ぐ場があれば、それだけをささえに逞しく生きていける女の底力と信念の方にリアリティを感じた。女はやっぱりそんな風に生きていける生き物なのだと思う。最後まで、愛した人と言葉も交わすことがなかったが、龍子の最期は少しも悲しくも、哀れでもない。彼女の人生、全部自分で選び、自分でおとしまえをつけたたまでのことだ。自らの遺体の葬り方まで決めて。爪の先まで人生を完全燃焼した爽快感すらある。

ここまで潔く、強い女性にはなかなかお目にかかれない。
龍子は男性のさだまさしが描く、憧れの女性なのかもしれない。しかしひとつ思うのは、女性もか弱く、可愛らしいだけではちっとも魅力的でないな、ということ。誰かに庇われて生きていく女性よりも、誰かを庇って生きていくくらいの強さがある方がカッコイイ。「眉山」を読んで、恋の成就の仕方もいろいろあるが、女性というものの可能性も底知れないと感じた。

龍子のようにいかないまでも、
女に生まれて後悔しない生き方だけはしたいものである。

本を読み終わっても、雨はまだ激しく降り続いている。
雨に煙るお山を窓外に眺めながら、徳島の阿波踊りも一度見てみたいな〜とついつい旅情をそそられる。かと思うや否や、鳴門の新鮮な魚が浮かんではお腹が鳴りそうになる。

私の"龍子道"は果てしなく遠い・・・・。

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オヤジの読み物

今読んでいる司馬遼太郎の「坂の上の雲」がやたらおもしろい。
昨日も疲れているのに読んでいくうちにどんどん目が冴えて、眠るどころか夜中の2時半頃まで読みふけってしまった・・・*_*。この本は日露戦争前後の話なのだが、全8巻、今4巻目でちょうど日露戦争の前半ってとこ。戦争の話なんてあまり好んで読まなかったが、特に軍の話なんて興味も持てなかったが、これは違う。いや、3巻ぐらいからは戦争そのものを語り、軍や戦場が舞台になってくるのだが、人間像や人間関係の描き方が秀逸なのだ。しかも「あんた傍で見てたん?」ていうくらい描写が詳細で、ディテールまでリアルなのだ。やはり、ブラボー司馬遼!である。

日露戦争というもののリアルな背景を初めて知ったが、 そこにはいろんな複雑な要素が絡み合っていたことがわかる。明治維新からまもなくというその時代は進化の途上まっただ中で、まだ幕府や藩の名残があり、国内の安定感もままならない。産業も技術もない当時の日本というのは、欧米に比べるとそれこそ未開の地である。それでもアジアに押し寄せる帝国主義が、日本を襲ってくる。

けれども明治の人というのは気骨にあふれている。そして優秀で勤勉である。主人公は幾人かいるのだが、中心的な人が秋山兄弟。日本の騎兵隊の基礎を築いたと言われる兄、好古と、日露戦争を勝利に導いた参謀、弟の真之である。他にも正岡子規(彼は戦争とは関係ないが、秋山兄弟の幼友達である)や、開戦まもなく洋上に散る広瀬武夫や、連合艦隊司令長官の東郷などなど、本の中でそういう魅力的な人達にふれあうたび、自分が日本人であるというルーツを誇りに思うくらい、彼らの生き様が素晴らしい。

なんといっても彼らには仁義というか、礼節というか、例え敵国に対してもすごく尊厳があり、第二次大戦時の軍人イメージとはほど遠い。この時代というのは、武士としての美学、大和魂の真髄みたいなのが精神風土を十分支配していたのだろうと思う。かつて祖先は実はこういうものを持っていたのだと思うと、失われてしまったものがあまりにも大きすぎたような気がしてならない・・・。

と同時にこの本の面白さというのは、現代を感じさせてくれることだ。200年ぐらい遡り、時代や社会背景はまったく違うのだが、人間像であるとか人間関係だとか、あるいは戦略やマネジメント、外交といったものなどにいちいち「今」を感じさせるものがあるのだ。そういう何か普遍的なメッセージを読み取ることも、この本の面白さではないだろうかと思う。とりあえず私自身が最後まで読んで、また詳しく語れたらなと思う。

昔、仕事仲間の人で(私よりずっと年上の方だが)、司馬遼太郎の大ファンの男性がいた。語り出したら止まらなくなり、オヤジのくせにもう、ウットリ+ハートマークって感じで、そうやって多くのオヤジの心を虜にしている「司馬遼」といえば、「なんかオヤジ臭〜!」ってイメージが強すぎて、正直言ってなかなか手が出せなかった本のひとつである(エッセイならいくつか読んでる)。

とんでもない!!

なんと浅はかで無知だったのだろうか・・・。あまりに遅すぎるデビューを後悔するばかりだが、でもこれから全巻読破の読む楽しみができたというものだ。っていうか、オヤジオヤジって、言うてるけど自分も十分オヤジやん!

で、やっぱり「司馬遼」はオヤジの読み物やったっつーわけですわ。納得*_*

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「田中宥久子 美の法則」一気読み

仕事の帰り、ふと本屋さんに立ち寄った。
お正月に家族で回し読みした鬼谷算命学の本でも見てみよう、なんて思って入ったのだが、「占い」の棚では目当ての本には出会えなかった。ふとその下を見ると美容関係。平積みされている「田中宥久子 美の法則」という本に目がとまった。TVで田中宥久子を見て以来、造顔マッサージを毎日やるようになり、「お、これは造顔マッサージ以外にも参考になる美肌術があるんじゃないの!?」という期待感が沸き上がり、その本を手に取りすぐさまレジに行った。早速仕事そっちのけで読み初めてしまったのだが、参考になる美肌術という期待感は見事に裏切られた。
それ以上の美しさを教えられることになったからだ。

前半こそ美しさのマインドや造顔マッサージが生まれた経緯、メイクのコツなどの話が書かれているが、その実、田中宥久子氏が私達女性に送る人生本と解釈しても過言ではない。メイクアップアーティストという過酷な仕事の中で学んだ自分なりのノウハウや考え方、とりまく世界、プロフェッショナルとしてのこだわり、そして一人の女性としての生き方や人生観、美意識などなど、単なる美容本と思ったら大間違い。逞しくも、エレガントな彼女の人生を通して語られた、美の哲学本である。

私は「徹子の部屋」で初めて彼女の姿を見た時、造顔マッサージという画期的な方法にも惹きつけられたが、同時に彼女自身の姿にもとても惹きつけられた。60歳とは思えない肌はまるで素肌かと見まがうような、さり気ないが実に上手なメイク。髪も後ろで縛っただけで、過度の装飾の見られないシンプルなファッションに身を包んだ凛としたいでたちからは、なかなか普通の人にはないオーラが感じられた。同性から見ても素直に「カッコイイな〜」と思える女性だった。顔を見るとその人の生活風景や性格、内に秘めた感情がわかると著書の中で彼女自身が語ってるように、見た目に彼女の生き様がそのまま表れていたことが、この本を読んでみてようくわかった。

「緊張するのはゆとりがあるということ。一心不乱になれば汗もかかないわよ」
「ほつれ毛ひとつにも、やつれたほつれ毛と色気のほつれ毛があるのよ」

なんて、大女優の方からポンポンと厳しい言葉を投げかけられ、1シーン1シーンが戦場のような映像の世界でヘアメイクとしてキャリアを積んできた田中宥久子氏。私だったら、メソメソと泣いて落ち込んだり、とっくに言い訳をつけて転職していたに違いない・・・。そんな場面を幾多も乗り越えた彼女の精神力とひたむきさ、そしてプロとしての向上心は並大抵のものではないと思う。その厳しい世界で一度も会社などに所属することなく、フリーで仕事を勝ち取ってきた背景には、全霊を尽くして仕事をすることの大切さ、それでいてどこまでも謙虚な姿勢があり、それが痛いほど伝わってくる。それはやがて自分の化粧品ブランドSUQQUへの情熱やこだわりとなり、またまたそこでもカリスマ性を発揮しておられる。いや〜、すごい方です。

こうして築かれた確固たる自分自身のキャリアと美意識があるから、人を説得させるワザが身に付き、感動させるメッセージが生まれてくるのだ。「年を重ねるほど、深みのある美しさが増していく」と彼女は断言している(それは確実に生き方によるのだろうが)。自分がよくいくあるホテルに飾られている一枚の写真が自分の20年後,30年後の理想なのだそうだ。それはフランスの街角に佇む女性の姿で、シワがたくさん刻まれた女性が帽子をかぶってサングラスをかけ、優雅にタバコをふかしている。穏やかだけど、さまざまな人生の有為転変を乗り越え、その年齢になって勝ち得た人間としてのゴージャスさ、そこに惹かれるのだという。人間としてのゴージャスさなんて言葉、なかなか出てくるものではない。

私は田中宥久子氏がこんなに売れて、世の女性のハートを掴んでいるのに、単なる美容本を出さなかった理由がすごくよくわかるような気がした。素敵な女性になるためは造顔マッサージも、メイクテクニックという日々の努力も大切なのだが、それを本当に価値あるものにするのはやっぱりそれぞれの生き方や心の有り様なのだろう。あとがきでは、彼女の人生の中でさまざまな試練があり、そのいくつかが転機になったことが語られているが、それもさらっとあとがきで書いてしまうことに彼女の美意識を感じるし、言葉少なに語られるだけに逆に彼女の心の声が聞こえてくるようで、感動した。

久しぶりに、読後に背筋が伸びる思いをした。

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白石一文について 1

今、白石一文の最新刊「どれくらいの愛情」を二度読みしている。
私が今一番好きな作家で、著書は全部即買いし、必ず二度読みしてしつこく味わっている。なぜそんなに好きなのかを説明するのはむずかしいが、他の本と違うのは文字が通り過ぎないってことだと思う。最近の作家の多くは読んでも心の中に入っていかず、通り過ぎていく人が多いが、彼の作品は心の中に確実に染みいっているように思う。要するに白石一文が伝えようとすることが、私にはものすごく伝わってくるのだ。彼の作品は突拍子もない設定や日常からかけ離れた世界ではなく、現代に生きる人々の(特に私達の世代前後がほとんど)いろんな生き様を切り取った小説が主だが、そのどれもに「生きることとは?」の問いが根底にあり、他の作家にはない誠実さと芯の強さが感じられるのだ。

それは彼の小説を読むと、いつも新しいのに古典的な感じがする、という独特の感触に表れていると思う。今更「真の幸福」とか「生きる目的」なんていう言葉が陳腐に聞こえそうな時代に、バカ正直なまでにこのテーマに真摯に取り組む姿勢がすごく感じられるのだ。で、そのテーマをいろんな人の生き様を通し、精緻な文章で語られると、今まで目をそらしてきた大切なものに気づかされる。だから小説としては新鮮なのだが、眠っていた懐かしい心温まるものや、人が本来持ち合わせているであろう純粋さみたいなものが呼び起こされ、オーソドックスな着地点に落ち着ける、そんな感じだ。

ふと、ネットで白石一文について調べてみると、お父さんも作家で(直木賞作家白石一郎)、双子の弟(白石文郎)も最近デビューした作家なのだそうだ。これは全然知らなかったので、ぜひ読んでみるとしよう。しかしこんな小説家一家って、一体どんな雰囲気なのだろう!?晩ご飯なんかは、随分理屈っぽい会話が成されるに違いない。白石一文スレもあったので覗いてみた。

売れてる作家なので、批判的な意見が多かったのには意外だった(ま、こういうとこには批判する人が書き込むのが常かもしれないが)。これまでのヒット作品中心に批評が書き込まれているのだが、理解できないとか、主人公に共感できないとか、つまらない小説だとか、かなり辛辣に批判している人もある。中でも村上春樹のマネだという人が結構いて、私は村上春樹も好きだが、全然世界観は違うと思うし、共通点も感じられなかったので、人の感性や受け取り方っていろいろあるんだな〜と思った。

伝わらない人には伝わらない作家なんだろうし、嫌悪感を抱く人がいるのもわかるような気がする。伝わらない人とは人間の見つめ方、生き方、この世界の在り方なんかを捉える視点や感性が違うんだという気がする。それもよくわかるので、白石一文の小説を誰彼なしにすすめようとも思っていない。なんとなく自分の中の秘密兵器って感じで、一人白石ワールドに浸るのがまた格別なのである。

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瀬戸内晴美と向田邦子

古本屋で買った瀬戸内晴美(出家以前の作品)の「再会」という文庫本を読み終えた。
短編集なので、毎晩寝る前に一話づつ楽しみにして読んだ。楽しんで読むほど、ハッピーで癒されるようなストーリーでもないのだが、おどろおどろしい女の性やそこに火の粉をまき散らすような男が組んず解れつ描かれるさまざまな物語を読むと、私はなんだかスッポンの血やまむし酒を飲まされるような、体内に妙に生々しいエネルギーを注がれる思いがした。

それくらい瀬戸内晴美の小説は頭で読むというより、カラダに染みいっていくような力がある。まだ幼い娘や夫を捨てて家を飛び出し小説家になっただけあって、彼女を突き動かすエネルギーというのはもともと並大抵ではないのだろうと思う。女の本性を真正面から書ききる文章には、いつもそこから目をそらさない潔さと深い洞察力が存分に伝わってくる。しかも巻末を見ると1967年刊行とあって驚いてしまった。文庫本にされたのが1967年だから、小説自体はもっと前に書かれているのだ。瀬戸内晴美の小説というのは時代を経てもちっとも古さを感じさせない、まるで鮮度を失わない生肉のようなのである。

「再会」と共に、向田邦子の文庫本も買っていた。これはテレビドラマの脚本を小説仕立てにしたものなので、小説としてはちょっと無理があるが、脚本の上手さにかけてはやはりピカイチだ。セリフのひとつ、シーンのひとつに、私などはいちいち唸ってしまった。もちろん彼女の小説も大好きだ。奇しくも事故で急逝したためにたくさんは遺っていないが、数少ない小説の一つひとつはどれも秀逸という言葉がぴったりである。

瀬戸内晴美(寂聴)と向田邦子、どちらも大好きだが、二人の作品は同じ小説でも入っていくところが違うという気がする。どちらも女と男を描く名手だが、瀬戸内晴美の小説はストレートで生々しく、読むとすぐさまカラダに吸収されていくような熱さと浸透力があるが、向田邦子の場合は五感で感じてかぐわしい香が漂うような仄かな余韻を楽しむ味わいがある。

それは描写の仕方にも表れていて、瀬戸内晴美が人間の芯にある愛や性を濃縮100%で描くとしたら、向田邦子は人間の持つおかし味を描きながら愛情や悲哀の核心に触れる、という調理の仕方も味付けの仕方も全然違うのだ。そこには二人の生き方の違いが映し出されているのかもしれない。一方は家庭を捨て、いろんな男性と恋の浮き名を流した波瀾万丈人生を送った女性の業と、男性遍歴は謎めいていて、仕事と多彩な趣味で人生を愉しんできた女性の美学との違いだろうか・・・。

けれどもそれぞれが描く世界は全く異なっているように見えても、底辺には同じようなものが流れていると感じられる。男と女。この永遠に書き尽くせない、愛とすれ違い(とでも言うのか、私ごときがとても語れませんが・・・)をオリジナルな世界で切り開いた。大正生まれ、昭和ひとけたというどちらも昔の女性らしく、セックスを決して露骨に描くわけではないが、その慎み深い表現がかえってエロティックで、これは向田邦子の方がその効果を知っていたような気がする。瀬戸内晴美は胸の裡にある女の情念や渇きをつぶさに描き切るところにすごさがあるが、向田邦子は元脚本家らしくセリフや情景描写でそれを悟らせるというテクニックがすごい。どちらの世界も本当で、どちらの小説も読む人を魅了して止まない。

瀬戸内晴美と向田邦子、二人の小説は極上の日本料理とフランス料理を楽しむような違いがある。私はこれからも両方を味わいながら、せいぜい小説の中でだけ男と女を極めていきたいと思う・・・(^_^;)

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