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しもやけのできない冬

暖かい日が続いている。
今日なんて、コートがいらないほどだった。日も長くなり、夕方の5時半を過ぎてもまだ明るいと、もう春がそこまで来ているのかと思って嬉しくなる。私にとって暖かい冬が有り難いのは、何を隠そう、しもやけにならないからである。この歳になっても、しもやけができるというのも恥ずかしい話だが、血の巡りが悪い私は冬になるといつも足の指がしもやけで赤く腫れる。寒いところでは冷たいままだが、炬燵などに入るともうかゆくてたまらない。小さい頃から針で足指の血を出してみたり、冷たい水とお湯に交互に足をつけてみたり、さまざまな原始的しもやけ撃退法を試みたものだ(懐かしい!)。ずっとそんな感じだから、手足が冷える冬というのは本当に苦手なのである。

だから今年は暖冬で本当に暮らしやすい。
でも寒〜い冬があるからこそ、春の喜びもあるというもの。暖冬だといささかその醍醐味も情緒も感じられない。ハワイなどの南の島に暮らしていると、季節の情緒がなく、何かしら大味な、物足りなさを感じる私ではある。しもやけがかゆいとはいえ、やっぱり冬は冬らしく野山が枯れ、雪がちらつく方が正しい在り方なのだろう・・・。

しかしまだ1月の末、まだ冬は1ヵ月残っている。暖冬の年は2月3月が寒くなることが多いらしいから、もしかしたら来月はいよいよ極寒の季節がやってくるかもしれない。明後日からまた寒くなるらしいという天気予報に内心おののきながら、今はその先にある春を待ち望みながら冬の日を一日ずつ乗り越えているという感じである。

湯につかり身体ほどけていく瞬間

このまま、しもやけができないで冬を終えることができたら・・・。
ささやかな望みを秘めながら、今日もあったかいお風呂に身も心も癒される私であーる(●^_^●)。

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請求させていただきます!

月末は請求書を作成する時期である。
請求書を作成すると言うことは、その前に料金交渉を行うと言うことだ。料金交渉はすんなりいくこともあれば、紛糾することもある。予算がないからと無理矢理ねじ込まれることもザラである。大抵の場合、仕事を発注する際は積極的に連絡を取ってくる得意先やプロダクションも、納品が終わると料金交渉は消極的だ。そこをなんとか捕まえて、早め早めに請求を促すのも健全なフリー生活を送る大切な仕事のうちである。

私の仕事は、文章を書いたり、アイデアや企画を提案したりする仕事だから、どちらかというと目に見えないソフトを売る商売である。金型を一つ作ってなんぼ、ケーキ一つ売ってなんぼ、という明快な商売ではないだけに、料金というのはなかなか明瞭会計とはなりにくい。イコールその対価について理解されにくい場合もままある。例えば、パンフレットなどの印刷物や新聞広告などはだいたい基準となる金額があるので、だいたい料金交渉はすんなり行く場合が多い。ところが企画やプランニングというと、とたんに対価があやうくなる。

そう、人は目に見えないものにお金を支払おうとしない。

パンフレットに書かれる文字というのは、目に見える商品で、その印刷物の内容を書き記すという目的も明確だから、クライアント側もお金を払いやすい。一方コンセプトの提案や商品のネーミング、広告のアイデアなどは、目に見えないものなのだが、それらが販売促進や広告展開の根幹を動かす大事な「ソフト」であっても、そこに「なんぼ」という対価は設定されにくい。それらが新聞広告やTVコマーシャルという形になってこそ初めて、価値が生ずる場合が多い。しかし単にコピーライティングという手間の作業と、考えに考え抜いたオリジナルのコンセプトではどちらに価値があるか、作る側としてはやはり後者に価値を置かれることを望む。
企画書づくりというのも、その後の広告物制作費に吸収されることが多いが、その仕事をゲットするためにさまざまなリサーチをし、知恵を絞って作り上げた企画書というのは立派な商品だと思う。まして自らプレゼンし、新たなビジネスチャンスにつながった場合、それは正統に対価を支払われるべきである。

というわけで、今月とある企画書について、企画提案として正統な料金を主張し、「今後の制作物もまたお願いするから」というなーなーの姿勢に巻き込まれることなく、納得できる請求を勝ち取ることができた。イェイ!(^ ^)
随分強気な姿勢のように思われるかも知れないが、以前からこうだったわけではない。比較的リーズナブルな通りやすい料金設定をし、相手先の意向にすぐ折れてしまったり、かなり気弱な部分も多々あった。もともと丼勘定でアバウトな性格のためか、お金でもめたくない、という妙な意識もあったと思う。しかしそれは単なる言い訳で、間違ったことであると気づいたのだ。なぜならお金を堂々と請求するということは、それだけ責任と使命を負っているからできることなのだ。逆に言えば一生懸命取り組んできっちり責任を果たすから、正統な料金を主張できるのである。主張できないと言うことは責任や自信の欠如である。

私は中身もないのにお金だけ高く要求するわけでは決してない。それなりの料金はそれなりのモチベーションをもたらす。つまり、それは自分で自分のお尻に火を付けることでもあるのだ。元来怠け者の私はこうして自ら尻を叩き、火を付け、追い込まれてこそ、良い仕事を結実させることができると思っている。なーなーの料金交渉は、結局なーなーの仕事環境を作ってしまう。お金の重みを感じることは、仕事の重みを認識することでもあるのだ。

お金って本当にシビアである。

それだけに自分を守ってくれるのもまたお金なのである。かねがね仲良くしたいと思っているのだが、なかなか寄りついてはくれない。まだまだシビアな関係が続きそうである。


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子供服選び

お友達の出産祝いを買いに行った。
漠然と百貨店の子供服売場を歩いていたら、目に付いたのが靴。あまりにもちっちゃくて可愛い靴は、おもちゃか置物のようで、とても人間が履くものとは思えない。どの店を覗いても靴ばかりが目に付き、もう私の中で出産祝いは「靴」以外考えられなくなってしまった・・・。

私が選んだのは、黄色いラインが三本入った白いアディダスのスニーカー。男の子なので、やっぱりスニーカーを履かせたい(包装してあるので、お見せできないのが残念!)。でも思わず「これってホントに履いて歩けるんですか!?」と店員さんに聞いてしまった。「ええ、もちろん・・・」店員さんはちょっと困ったような表情をしていたが、それくらい私にとって現実味がない姿形であった。どこから見ても可愛らしい、ミニチュア版の靴を手にとって、こんな小さな靴を履く子供も、やがて声変わりし、28㎝とかのバカでかいスニーカーを履きつぶすような男の子になるのかと思うと、人間の成長というのはすごいものだとふと感慨にふけってしまう・・・。

靴を探しがてら、子供服売場をつぶさに見て歩いた。おくるみから、カジュアルなシャツやパンツ、女の子の可愛いワンピースまで、いろんな服を手にとっては「カワイー!」と感激し、自分に子供がいればどんなに楽しいだろうかと思った。子供は親にとって着せ替え人形と同じである。私も小さい頃はそうであった。おしゃれ好きの母は普段着はもとより、入学式、旅行、ピアノの発表会といったイベント毎に、自分でデザインしたオーダーメイドの服や行きつけのお店で可愛い服を購入してはせっせと着せてくれた。可愛い服を着せてもらうのはうれしかったが、母も私にあれこれ着せて楽しんでいたのだと思う。

最近は子供のいない夫婦も多いためか、犬を飼う人が増えている。つい目についてしまうのが、服を着せられたミニチュアダックスフンドやチワワなどの犬。小型犬ばかりではなく、ラブラドールのような大きな犬にも服を着せてる人がいる。私は犬好きだが、あれだけはどうもいただけない。犬はおしゃれも何も感じないのだから、あれこそ飼い主の自己満足である。小さくて寒がりな犬ならまだしも、大きな犬は迷惑そうだ。街で着せ替え犬を見かける度、「服を着せてあげた私のワンちゃん、可愛いでしょ!?」てな具合に、飼い主の主張が聞こえてきそうである。犬を見ると、飼い主の着せ替えにつき合わされてるというあきらめの表情が漂っていたりし、ちょっと気の毒に見えてしまうのは、私だけだろうか・・・。

やっぱり犬は自然そのままの姿でいるのが一番可愛いと思う。子供のファッションも飾りすぎずに、子供の元気さを引き出すような自然な服が一番なのだろう・・・。スニーカーを履いた子供の姿、早く見てみたいな・・・(^ ^)

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三河の鰻

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長くてニョロニョロしたものを見るのは苦手だが、長くてニョロニョロしたものを食べるのは大好きである。そう、私は穴子や鰻、鱧に至るまで長ニョロもんに目がない。見た目はとっても気持ち悪いのに、食べたらどーしてあんなにおいしいのか。最初に食べた人の勇気を大いに讃えたいと思う。中でも、私が無性に食べたくなるのが鰻。しかし普段はあまり手を出さない。スーパーにはいつでも置いてあるがどうも美味しくないし、鰻だけは信頼おけそうなところでしか購入しない。鰻を食べさせる店だってそうそうはないし、お山の上では鰻の出前もままならない(着いたら、冷め冷めや〜ん!)。そんな状況下にあるため、私は普段から"鰻飢餓感"に晒されているのである。であるから、デパ地下なんかで

「三河の鰻」

なんていう看板を見ると、もうその前ばかりをウロウロしてしまう・・・。
その前に釘付けになっていた鰻重テイクアウトのお店も老舗っぽくて、ウマそうだったが、そこの一番安いのでも1200円ちょっとだったことを思うと、一匹丸ごと¥1,260とはお買い得である。結局今晩は鰻で一杯やることにした。イェイ!(^ ^)

実は結構大人になるまで鰻が苦手だった。
子供の頃に食べた鰻の骨が喉にささり、辛い思いをしたことがトラウマになって、味は好きなんだけど、食べられない。食べたい時は小骨をいちいち取って食べたりしてたので、疲れ果ててしまうのだった・・・。でも食べ物のトラウマほど払拭しやすいものはない、私の場合。いつの間にか、人がおいしそうに食べてるのを見て自分もザクザク噛んで食べてみたら、骨も気にならずどーもないのである。そこから鰻への扉は開かれたのである。

忘れられないのは東京の深川で食べた鰻。
昔の彼氏のお友達の実家が代々続く下町の鰻屋さんで、そのお店で私は東京風鰻を初めていただいた。関西のように蒲焼きにせずに蒸して出される鰻は柔らかくてとってもジューシー。白焼きもその時初めて食べたのだが、山椒の香りいっぱいのふんわりした鰻が口の中で溶けていく瞬間、「なんちゅーことしてくれんねん!?」ってゆーぐらい、感動したものだ。なんか下町にある何の構えもない、こじんまりした昔ながらの店がまたいいんだよね〜。江戸っ子のおじさんの口調とかも、TVを観てるようだったな〜・・・・(●^_^●)

・・・と、東京トリップに浸るのはそれくらいにして、少し南下して今晩は三河の鰻をおいしくいただくとしましょう。
・・・・・と、ウキウキ気分になっていたら、こんな時に限って仕事の電話。三河の鰻、ありつくのは日付が変わってからになるかもしれない・・・・。

あ〜〜ん(* *)

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今時のマンション

最近は大型マンションのラッシュである。
マンションの告知をTV-CMでよく見かけるように、大型マンションならではの広告展開が各社で繰り広げられている。CMの他、パンフレットや折込広告など、いかに素晴らしいマンションライフが送れるかというストーリーづくりを行うことは私達クリエーターにとって大切な仕事だ。マンションの良さを凝縮したキャッチコピーを作ったり、魅力ある間取りを紹介したり、共用施設のひとつをとっても住宅棟の間にある中庭であるとか、カフェスペースや集会所、エントランスホールのネーミングまで細かく提案し、憧れのマンションライフのストーリーを提案する。

中庭は中庭でいいやん、
エントランスホールはエントランスホールでええんちゃうのん!?

そう安易に考えてはいけないのである。今時のマンションというのは共用施設やランドスケープデザインにもこだわりと魅力を持たせ、それらのイメージを際立たせて、入居希望者に夢と憧れを喚起せねばならないのだ。玄関までのアプローチをアプローチとは言わせない。それは季節の潤いを感じられる「シーズンズアベニュー」となり、自動販売機の置いてある休憩スペースも居住者の憩いの場となる、「レジデンスカフェ」となったりして、一つひとつが優雅な暮らしの期待へと結びつけられるのである。取って付けたようなネーミングに心惹かれるかどうかはわからないが、桜並木のあるアプローチも、エントランスホールにあるカフェスも、マンションというコミュニティで暮らす人にとっては大切な生活スペースに違いない。共用施設がいかに上質で心地よいかは選ぶ人にとっては最重要ではないが、見過ごせないポイントになるのだろう。

マンションはなんといっても「利便性」と「設備」がウリである。駅から○分という便利な立地や自然に恵まれた場所である他、携帯で操作できるセキュリティ・システムや浴室乾燥機などの便利な生活機能は今や標準装備。大型マンションの場合はお客さんが泊まれるゲストルームやインターネット設備のあるスタディルーム、大型ビジョンの備えたシアタールームのあるところは当たり前で、コンビニや専用のプールを備えたところだってある。

いやはや至れり尽くせりの住まいである。
これでもかというくらいの利便性や設備を備えているのは、マンションがやはり限られた空間、居住者みんなで共有する敷地ということがあるのだろう。だいたい60㎡から100㎡ぐらい(バルコニーを除く)が一世帯当たりに割り当てられたマイ空間。集合住宅だからそれは変えられない。そこにいかに付加価値をつけていくかが、マンションという住まいの魅力につながるのだ。だから立地や設備、先進の機能は必須なのである。

駅から遠い山の上で、何一つ便利な設備の備わっていない家に住んでいると、マンション暮らしがえらく羨ましく思えてくる。でもこういう不便な山の上に住むか(あんまりそれを選択する人はいないかもしれないが)、至れり尽くせりのマンションに住むかも、それも人それぞれで、その人の価値観によることには違いないだろう。さらにもうひとつ、人には「柄」というものがある。いくら便利で住みやすくとも、柄にない場所では落ち着かない。私はあまりにも設備が整いすぎた完成された住まいというのには、どうも魅力が感じられない。便利なだけが生活のすべてとは思えない。そんな偏屈な性分だからわざわざこんなところに住んでいるのだろうが・・・。

だけどプールがあったり、浴室乾燥機がある家っていいな〜
結局、そんな風に憧れの暮らしを夢に見つつ不便な暮らしをしている貧乏性なところが、一番自分の性に合ってるということなのだろう・・・・。

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「あるある」の影響力

今日スーパーに立ち寄ったら、納豆売場の前で女の子がささやき合っていた。

「あ、納豆あるやん。やっぱりもう売れてないのかな〜」

「あるある大辞典」のねつ造事件は、やはり一般庶民のすみずみまでに問題が波及するショッキングな事件だったようだ。私自身はあまり観ていなかったが、周囲には"あるあるフリーク"があふれていた。番組をすべて録画している人や、食べ物や健康法のうんちくを披露してくれる人など、ことあるごとに"番組信者"と遭遇した。それだけみんなの心をくすぐる番組だったのだろうが、その度に"あるある"の影響力の大きさにいつも驚いていたものだ。

影響力がある、ということはそれだけの責任を負っているということだ。

なのに、アメリカ人学者の話をでっち上げたり、被験者を正しく測定もしていないのにデータをねつ造したり、ふたを開けてみればそのなんともお粗末すぎる事実に、まるであきれてしまった・・・。だいたい「納豆で痩せる」とか「肌が若返る」とか、そこまで言い切っていいの!?って言うぐらいストレートで断定的な番組だったから、逆に私などはシラけてしまう部分があった・・。あの番組を好きな人というのは、健康とか美容とかに関する得する知識が得られるところに面白さがあるのだろうが、私などは別にTV媒体として制作する内容ではないような・・・という気がする。どっちかっていうと雑誌のノリで、だとしたら、結果的に「10日で5㎏痩せた!」とか「みるみる毛が生えた!」とかいう巻末とかにあるあのいかがわしい広告とさして変わらないっつーことではないか・・・。

その一方、私も制作する側にいる人間なので現場の苦しみみたいなものもつい考えてしまう。毎回毎回、みんなを「へぇ〜〜〜」と驚かすネタを探し、ひとつの番組に作り上げることは大変だったと思う。人気番組だっただけに、つまらないものは作れない。だからと言ってウソを放送していいわけではないが、責任感の欠如が結局番組の信頼も、現場の努力もコッパみじんにしてしまった、これだけは真実である。

わずかな校正ミスでも広告が刷り直しになるように、一つでも虚偽や間違いがあると信頼はすぐに失墜する(刷り直しで済むだけマシなのかもしれない)。お金を貯めるのは大変だが、使うのは一瞬というように、築くまでは大変だが、簡単に失墜してしまうのが信頼である。立派になればなるほど責任感という重しでそれを確固たる存在にしていかなければならない、ということなのだろう。世の中とは気の抜けない場所である・・・。

今回の"あるある事件"は、私のような下々の人間にも責任感という問題を投げかけてくれた。いやはや本当に最後まで影響力のある番組だった・・・^ ^;。


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穏やかな祇園町

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今、京都は一番静かな季節だ。
秋の観光シーズンが終わり、慌ただしい年末年始を越し、えべっさんの行事も過ぎた今の時期は、しばらく静かな時間を取り戻す。ちょうど平日の昼間、祇園を訪れ、花見小路から切り通しを通って三条まで歩いたが、穏やかな京都の表情を久しぶりに見た気がする。花見小路などは人通りも少なく、夜の社交場となる街も昼間訪れるとすっかり落ち着いた佇まいを見せ、お稽古帰りの舞妓さんが通り過ぎたりして、なんだか素顔の祇園町を見たようで新鮮だった。こんな表情を楽しめるのって、ちょっと贅沢。地元に住んでる役得である。

紅殻格子、犬矢来、虫籠窓などが独特の風情を醸す町家。祇園はそんな歴史ある町並が遺る街だ。ここ最近は町家を利用した店舗が増えているというものの、依然町家は減少傾向にある。市内はマンションラッシュでどんどん古い建物が取り壊され、昔の佇まいがどこの街とも同じの無機質なビルに変わっていく姿を見る度に心が痛む。あとどれくらい、京都が京都でいれるのだろうか・・・。時代は移り変わっていくものだが、京都という街は古き良き文化があってこそ新しさが生まれるところ。そんな土壌を私達の代で終わらせたくはないと思う。この街に住む人にとっても、この街以外に住む人にとっても・・・。

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Lost in translation

頭痛が直らず寝て過ごすうち、BSで映画「Lost in translation」を観た。
この映画は劇場で観たのだが、TVでもう一度じっくり観てみるとなかなかいい映画だなと思った。最初に観た時は、ヘタな通訳やコマーシャルフィルムの制作現場、のっぺらぼうな日本人の描き方などばかりが気になって、それらが「Lost in translation」というタイトルと安易に結びついてるような、これまでの外国人が描く日本と同じような印象ばかりが先だってしまってあまりよく思わなかった。でも改めて観てみると、もっと奥深いメッセージが感じられてなかなかいい映画だなと思った。

「I'm stuck」

シャーロット役のスカーレット・ヨハンセンが、ボブ役のビル・マーレイに打ち明ける。夫婦関係も疎外感でいっぱいの彼女は、日本に来て何を見ても感動せず、いつもうつろだ。いろんなことに行き詰まってることをただゆきずりのボブに話す。ボブも倦怠期の仕事や家庭生活について語る。Lost in translationは、日本語に訳すのが難しい言葉であり感覚だと思う。単に翻訳で失われるもの、という語学としての意味だけでなく、夫婦や親子、友人など、いろんな人間関係で本当の自分が通じないコミュニケーション、人生に迷っている様を表しているのだろうが、そういう中で描かれるシャーロットとボブの心の通い合いがすごくピュアだ。

身近な人達と心を通い合わすことができないでも、得てして見知らぬ人の中に同じような自分を発見することがある。そんな出会いを描くには、東京というあらゆるものが混在する東京という街は格好の舞台なのかもしれない。年齢も、住む環境も、バックグランドも違う、アメリカ人のシャーロットとボブが異国の地東京で巡り会い、単純に色恋というハナシに陥らずに心を通い合わせていく様には、繊細で心温まるものがある。スカーレット・ヨハンセンとビル・マーレイが、そのピュアで温かいふれあいをすごく上手く演じている。ネオン街やゲームセンター、カラオケやしゃぶしゃぶレストランなど、いろんな東京のシーンが出てくるが、外国人の手によって描かれるとそのどれもがなんだか自分にとっても異邦という気がした。この映画は、東京という不思議な国で出会った大人を描いた絵本という気がしてくる。

ボブがアメリカへ帰る日、空港へ向かうタクシーの中からふとシャーロットを見つけて掛け寄り、最後に何かささやきハグして別れる、というラストシーン。よく見るとこれまでになくしっかりチューしていた。最後に彼女にささやく言葉は何だったのか、気になって仕方ないが、携帯の電話番号やメルアドなどでなかったことは確かだろう。それをあえて音声にせず、観た人の想像に任せるところもニクイ。結局この映画はソフィアコッポラの才能をガンガンに感じる作品だった。

もうすぐ日本で公開される、ソフィアコッポラ監督の新作「マリーアントワネット」もちょっと観てみたい気がした。

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サプリメントなお年頃

兄夫婦の影響で、最近サプリメントを摂るようになった。
「栄養素は食べ物から摂る!」ということをポリシーにしていたので(ホントは、面倒なのとすぐ飲み忘れてしまうからなのだが)、これまでサプリを飲もうという気はあまりなかった。というか、どうも信じられなかったのだ。カロチンたっぷりのカボチャ、レモンにたっぷり詰まったビタミンC、長らくそんな風に栄養素というものを捉えてきたのに、それがあんな無機質な錠剤に変わって「ハイ、一日2錠」なんて言われても、本当にそれがカロチンやビタミンCなのかと思ってしまう・・・。そんな栄養の取り方って、大変色気のないハナシではないか。

そんな風に思っていたことは、ごくごく自然な感覚だと思うのだが、今の時代においては私のような人間は時代錯誤の部類に入るのかもしれない。とはいえ、最近友達や仕事仲間と会えば富みに健康のハナシで話題が盛り上がることも事実。サプリを異端視していた私も、だんだん耳を傾けるようになってきたことは間違いない。しかも兄夫婦らはこう言っていた。

「サプリを飲んだら、翌朝酒の残りが全然違うよ」
「ビタミンCは、まめに摂らないとストレスやお酒なんかですぐに破壊されるのよ」
「今健康なのは、長年サプリを飲み続けているせいだ」

そしてしこたまお酒を飲んだ後、寝る前には専用ケースから取り出した何種類かのサプリをきっちり飲んでいた彼ら。なんだか矛盾しているような気がしないでもなかったが、私もその時は飲まされた。確かに私はよく飲んだ翌日、舌に口内炎ができていることが多い。不足すると風邪を引きやすくなり、しかもお肌にも重要なビタミンCが、そんなに失われやすいものだったとは、甚だ勉強不足である・・・。食事には気を遣っているつもりだが、やはり忙しい時は追いつかない。飲むだけで身体に必要な栄養素を摂れるというのは、よく考えると有り難いものである。

かくして私は今、毎日一通りのサプリを飲んでいる。ビタミンCは錠剤を半分にして、日に3回摂るという細かいワザまで使っており、すっかり"ヘビーサプリメンター"だ。効果が出ているのかどうだかなんてよくわからない。が、それでもせっせと飲んでいるのは、私もそういうお年頃だということだろう。健康なんて当たり前、なんて思っていた頃がやけに遠い昔のことのように思われる・・・。

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あれから12年・・・。

12年前、阪神淡路大震災のあったその日、私は京都にいた。
忘れもしない、早朝、ドーンという音と強い揺れで目が覚めた。本棚から本が落ち、天井が揺れ、食器棚の繊細なグラスは壊れていた。これまでに経験したことがないような激しい揺れで、しかもとても長く感じられた。はるか離れた京都でさえこんな状況だったのに、神戸でのそれは一体どんなものであったか・・・。想像しただけでも恐ろしく、思い出すたびに犠牲になった方々が気の毒でならない。ニュースや新聞でいくら知っていても、悲惨な状況は、現場で体験した人でないとわからないだろう。

台風、洪水、山崩れ、豪雪などなど、最近は人災と見なされる場合も多いが、天災というのは人間の力では防ぎようがない。中でも地震はなんの前触れも予兆もなく、突然やってくるのだから本当にどうしようもない。一瞬にして建物が崩れ落ち、家具や柱の下敷きになってしまう。つくづく地震という災害の怖さを思い知らされる。

つい先日、町内会報で、私が住む地域に想定される地震が起こった場合、以前の震度5弱から震度7に可能性が上がったという報告があった。私はその報告にショックを受けた。専門家が出すその数字の意味はよくわからないが、少なくとも震度5弱と震度7では全然違う。かなり古い家屋のウチなどは、ひとたまりもない。お山の上はライフラインが途絶え、ヘリコプターの救助を待たねばならないだろう・・・・。

考えるだけでも震えが来るが、私達は常にそうした危険が起こりうる土壌の上で生活しているのだ。TVを見ていても、地震速報が日常茶飯のこの国では、私達の意識もいたずらに慣らされつつある。しかし阪神淡路大震災のことを振り返るたびに、私達はたまたま地震が起こらずに平穏無事に生活しているだけであり、たまたま今日生きているだけなのだと思う。

一日、一日の大切さが、身に染みて感じられる1月17日である・・・。


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記号文字化けの悪夢

何事もなく、無事に終わるはずだった昨日、夜7時過ぎに電話が入った。
私が携わった新聞広告が先週土曜日に掲載されたのだが、その広告にある文字1字が飛んでいたという、代理店の担当営業部長からの連絡だった。

・・・え〜〜〜〜〜!!!
文字が1字飛んでるって!!?

瞬間、ハラ〜っと血の気が引いた私。 ( * *;) 
一体どういうことだ、何度も直しをし、何度も校正を繰り返し、クライアントの最終確認もばっちりだった原稿から、なぜ文字がなくなってしまったのだ・・・!?しかも、小見出し的キャッチコピーだから、文字もそれなりの大きさである。とんでしまったのは「㎡」という記号。もしやこれは記号文字化けの罠・・・・!?

すぐさまデザイナーに確認すると、彼も今気づいたよう。顔面蒼白の私達・・・。
印刷入稿する際には、文字やビジュアルにアウトラインをかけるなどの最終作業を行う。どうもこのアウトラインをかけた時に、文字が飛んでしまったのではないかというデザイナーの弁。㎡や○囲みの数字などは通常テキスト上でちゃんと文字が表れていても、メールで送る際に文字化けしてしまうことが多い。だからデザイナーがテキスト上の文字ではなく、図形として打ち直して整えるのが常なのだ。ところが今回文字が飛んでしまったところの㎡という記号だけは文字が飛んでいなかったため、テキストデータのまま使っていたようだ。するとアウトラインをかけた際に、やっぱり不具合が生じ知らないうちに飛んでしまったのだ。
だから最終確認した原稿では大丈夫でも、入稿原稿を見ると、やっぱり飛んでいた・・・。アウトライン後に上げた広告をデザイナーが最終チェックしていなかったのが最も罪だが、それを最終原稿で確認できなかった私も罪の一端を担う・・・。まさか最終原稿と入稿原稿で違いが生じる可能性があるとは思わなかったのが正直なところ・・・。十分慎重できっちり仕事をする信頼あるデザイナーだから、という安心感もあったのかもしれない。

甘い・・・・・・!!

この仕事をしているとこれでもか、というくらいの校正をやり倒してようやく当たり前に仕上がる、ということをつくづく感じる。今回私は「やり倒す」には及ばなかったようだ。そして慎重にやってるつもりでも、ミスはほんの小さなすき間からこじ開けてやってくる、恐ろしいシロモノなのだ。天冲殺のためか、気の弱い時期にはやたらミスが寄ってくる。昨年からこういうことが続いている私は、たまに夢の中ででも校正を行い、うなされていることもある・・・。

しか〜し!
失敗は成長の元。
ミスは学びのチャンス。

今回のミスを経験し、どういう経緯で文字化けが発生するか、また学ぶことができたのだ。そして震撼する失敗をすることで、さらに慎重さを肝に命じることができた。さすがに昨日の夜は悪い夢を見たが、プラスに考え今後に生かしていくことを強く誓うのであった・・・。
しかし驚くことに、昨晩お会いした代理店のK氏は、同じような入稿時の文字化け未確認で約600万の損害を被ったという。

ろ、ろっぴゃくまん!?

フリーの私にとっては、二度と浮上できない額である。
その恐ろしいハナシを聞いて、広告制作料のディスカウントぐらい、なんてことないと思えてきた・・・。良かったのか、悪かったのか、その規模の大きさに今回のミスも少々かすんでしまった。


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冬は蟹食って温泉入って・・・

無類の蟹好き日本人が考えることは皆同じだ。
「冬は蟹食って温泉入って・・・」。11月に入って蟹漁が解禁されると、そんな楽しみが誰の心にもくすぶりはじめる・・・。

友人達と「癒しの蟹食い温泉ツアー」を企画していたので、今日早速ネットで旅館を調べてみたら、めぼしい旅館はほとんどがアウトだった。平日はそうでもないが、土日はもう来月まで予約が入っているというところが多く、調べているうちに、さっき空いていた旅館も満室になっていくという、すごい勢い。今がシーズンだということもあるが、「冬は蟹食って温泉入って・・・」ってことを考えてる人が日本中には五万といるということに、今更ながら驚いてしまう・・・。

実は昨年も、金沢へ蟹食って温泉入ってツアーに出かけたが、やはり良さそうな旅館は既に埋まってしまっており、予約の取れた旅館はさしたる特徴もなく、料理も品数こそあれ、蟹自体はそんなに美味くはなかったが、お値段だけは結構した。ちょっといいとこだったら3万,4万するのもザラ。それでもどんどん埋まっていくのだから、私も含め、日本人の蟹+温泉への執着とは相当なものである。
妥協して予約を入れた旅館などはイマイチなんだけど、それでも次の年になったらまた「冬は蟹食って温泉入って・・・」へのクラブ・ドリームがかき立てられる。蟹+温泉というのは私達のつきない憧れ。それは疲れた大人達にとっての"ニンジン"なのかもしれない。

結局、私達の蟹温泉ツアーは、京都酔いどれツアーに変更されそうである。

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ちゃんこ鶏ガラスープ篇

さむ〜い夜は、鍋に限る。
つ〜ことで、今夜はちゃんこ鍋鶏ガラだし篇。これはいつも作る定番のちゃんこ鍋の鶏ガラスープバージョン。鶏ガラだしにすると、これまた違った味わいがあり、コクのある鍋が楽しめるのであーる。

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スープは、鶏ガラに白ネギの青い部分、生姜、昆布、煮干し、たまねぎ、にんじんなどをいれた大鍋をストーブの上でコトコトと煮立ててとった。これに酒、塩・こしょう、醤油、そして大さじ1ほどの味噌を入れて味付けをする。お好みで、赤トウガラシを入れてピリッと辛めにしたり、味噌と生姜をもっとたくさん入れて味噌スープにしても美味。具には鳥のつくねを入れ、野菜は和風だしのちゃんこ鍋で使う白菜ではなく、キャベツ。その他にごぼう、もやし、ニラ、薄揚げ、ちくわなどを入れて煮込むと出来上がりで〜す。最後に中華麺を入れて食べると、ちょっとそこいらのラーメンには負けません。

翌日はこのだしでチャンポンをつくるのがまた楽しみ。
関西ではあまりチャンポンってポピュラーではないが、実家が九州にあるわが家ではチャンポンはよく食卓に上った。関西のコがお母さんのつくるお好み焼きを食べて大きくなるように、九州生まれの母を持つと、母のチャンポンを食べて大きくなる。・・・そこまで言うのも大げさかもしれないが、チャンポンはそれくらい、ウチでは常食だったのだ。

で、作り方もカンタン。キャベツや玉葱、豚肉を炒め、中華麺も一緒に炒める。最後にニラ、モヤシなどを加え、最後にこの鶏ガラスープを加えて味付けし、お好みでとろみをつける。これがまたうめ〜のだ。野菜もたっぷり摂れるし、身体も温まって寒い季節にはどーしても食べたくなるもののひとつだ。

来週末はもう大寒。今度の週末は唐辛子をたっぷり入れて、心身ともにホットになれる鍋料理を作ってみようと思う。


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「田中宥久子 美の法則」一気読み

仕事の帰り、ふと本屋さんに立ち寄った。
お正月に家族で回し読みした鬼谷算命学の本でも見てみよう、なんて思って入ったのだが、「占い」の棚では目当ての本には出会えなかった。ふとその下を見ると美容関係。平積みされている「田中宥久子 美の法則」という本に目がとまった。TVで田中宥久子を見て以来、造顔マッサージを毎日やるようになり、「お、これは造顔マッサージ以外にも参考になる美肌術があるんじゃないの!?」という期待感が沸き上がり、その本を手に取りすぐさまレジに行った。早速仕事そっちのけで読み初めてしまったのだが、参考になる美肌術という期待感は見事に裏切られた。
それ以上の美しさを教えられることになったからだ。

前半こそ美しさのマインドや造顔マッサージが生まれた経緯、メイクのコツなどの話が書かれているが、その実、田中宥久子氏が私達女性に送る人生本と解釈しても過言ではない。メイクアップアーティストという過酷な仕事の中で学んだ自分なりのノウハウや考え方、とりまく世界、プロフェッショナルとしてのこだわり、そして一人の女性としての生き方や人生観、美意識などなど、単なる美容本と思ったら大間違い。逞しくも、エレガントな彼女の人生を通して語られた、美の哲学本である。

私は「徹子の部屋」で初めて彼女の姿を見た時、造顔マッサージという画期的な方法にも惹きつけられたが、同時に彼女自身の姿にもとても惹きつけられた。60歳とは思えない肌はまるで素肌かと見まがうような、さり気ないが実に上手なメイク。髪も後ろで縛っただけで、過度の装飾の見られないシンプルなファッションに身を包んだ凛としたいでたちからは、なかなか普通の人にはないオーラが感じられた。同性から見ても素直に「カッコイイな〜」と思える女性だった。顔を見るとその人の生活風景や性格、内に秘めた感情がわかると著書の中で彼女自身が語ってるように、見た目に彼女の生き様がそのまま表れていたことが、この本を読んでみてようくわかった。

「緊張するのはゆとりがあるということ。一心不乱になれば汗もかかないわよ」
「ほつれ毛ひとつにも、やつれたほつれ毛と色気のほつれ毛があるのよ」

なんて、大女優の方からポンポンと厳しい言葉を投げかけられ、1シーン1シーンが戦場のような映像の世界でヘアメイクとしてキャリアを積んできた田中宥久子氏。私だったら、メソメソと泣いて落ち込んだり、とっくに言い訳をつけて転職していたに違いない・・・。そんな場面を幾多も乗り越えた彼女の精神力とひたむきさ、そしてプロとしての向上心は並大抵のものではないと思う。その厳しい世界で一度も会社などに所属することなく、フリーで仕事を勝ち取ってきた背景には、全霊を尽くして仕事をすることの大切さ、それでいてどこまでも謙虚な姿勢があり、それが痛いほど伝わってくる。それはやがて自分の化粧品ブランドSUQQUへの情熱やこだわりとなり、またまたそこでもカリスマ性を発揮しておられる。いや〜、すごい方です。

こうして築かれた確固たる自分自身のキャリアと美意識があるから、人を説得させるワザが身に付き、感動させるメッセージが生まれてくるのだ。「年を重ねるほど、深みのある美しさが増していく」と彼女は断言している(それは確実に生き方によるのだろうが)。自分がよくいくあるホテルに飾られている一枚の写真が自分の20年後,30年後の理想なのだそうだ。それはフランスの街角に佇む女性の姿で、シワがたくさん刻まれた女性が帽子をかぶってサングラスをかけ、優雅にタバコをふかしている。穏やかだけど、さまざまな人生の有為転変を乗り越え、その年齢になって勝ち得た人間としてのゴージャスさ、そこに惹かれるのだという。人間としてのゴージャスさなんて言葉、なかなか出てくるものではない。

私は田中宥久子氏がこんなに売れて、世の女性のハートを掴んでいるのに、単なる美容本を出さなかった理由がすごくよくわかるような気がした。素敵な女性になるためは造顔マッサージも、メイクテクニックという日々の努力も大切なのだが、それを本当に価値あるものにするのはやっぱりそれぞれの生き方や心の有り様なのだろう。あとがきでは、彼女の人生の中でさまざまな試練があり、そのいくつかが転機になったことが語られているが、それもさらっとあとがきで書いてしまうことに彼女の美意識を感じるし、言葉少なに語られるだけに逆に彼女の心の声が聞こえてくるようで、感動した。

久しぶりに、読後に背筋が伸びる思いをした。

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白石一文について 1

今、白石一文の最新刊「どれくらいの愛情」を二度読みしている。
私が今一番好きな作家で、著書は全部即買いし、必ず二度読みしてしつこく味わっている。なぜそんなに好きなのかを説明するのはむずかしいが、他の本と違うのは文字が通り過ぎないってことだと思う。最近の作家の多くは読んでも心の中に入っていかず、通り過ぎていく人が多いが、彼の作品は心の中に確実に染みいっているように思う。要するに白石一文が伝えようとすることが、私にはものすごく伝わってくるのだ。彼の作品は突拍子もない設定や日常からかけ離れた世界ではなく、現代に生きる人々の(特に私達の世代前後がほとんど)いろんな生き様を切り取った小説が主だが、そのどれもに「生きることとは?」の問いが根底にあり、他の作家にはない誠実さと芯の強さが感じられるのだ。

それは彼の小説を読むと、いつも新しいのに古典的な感じがする、という独特の感触に表れていると思う。今更「真の幸福」とか「生きる目的」なんていう言葉が陳腐に聞こえそうな時代に、バカ正直なまでにこのテーマに真摯に取り組む姿勢がすごく感じられるのだ。で、そのテーマをいろんな人の生き様を通し、精緻な文章で語られると、今まで目をそらしてきた大切なものに気づかされる。だから小説としては新鮮なのだが、眠っていた懐かしい心温まるものや、人が本来持ち合わせているであろう純粋さみたいなものが呼び起こされ、オーソドックスな着地点に落ち着ける、そんな感じだ。

ふと、ネットで白石一文について調べてみると、お父さんも作家で(直木賞作家白石一郎)、双子の弟(白石文郎)も最近デビューした作家なのだそうだ。これは全然知らなかったので、ぜひ読んでみるとしよう。しかしこんな小説家一家って、一体どんな雰囲気なのだろう!?晩ご飯なんかは、随分理屈っぽい会話が成されるに違いない。白石一文スレもあったので覗いてみた。

売れてる作家なので、批判的な意見が多かったのには意外だった(ま、こういうとこには批判する人が書き込むのが常かもしれないが)。これまでのヒット作品中心に批評が書き込まれているのだが、理解できないとか、主人公に共感できないとか、つまらない小説だとか、かなり辛辣に批判している人もある。中でも村上春樹のマネだという人が結構いて、私は村上春樹も好きだが、全然世界観は違うと思うし、共通点も感じられなかったので、人の感性や受け取り方っていろいろあるんだな〜と思った。

伝わらない人には伝わらない作家なんだろうし、嫌悪感を抱く人がいるのもわかるような気がする。伝わらない人とは人間の見つめ方、生き方、この世界の在り方なんかを捉える視点や感性が違うんだという気がする。それもよくわかるので、白石一文の小説を誰彼なしにすすめようとも思っていない。なんとなく自分の中の秘密兵器って感じで、一人白石ワールドに浸るのがまた格別なのである。

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もてなされない旅館

年末から年始年始にかけては蟹三昧だった。
ウチでやった忘年会ではズワイガニを一箱買って、かにすきに。その後も残った蟹でみそ汁やクリームコロッケを作ってさんざん食べた後、実家へ行ったらまた蟹すき。さらに3日には家族で温泉旅館へ宿泊してワタリガニを食べた。もうさすがに当分蟹はご遠慮します、って感じである。

もうひとつ、ワタリガニを食べに行った佐賀の温泉旅館もご遠慮願います。家族揃って旅行に出かけるなどなかなかないだけに、あの旅館には本当にがっかりさせられた。目的のワタリガニが意外に小さかったというのも期待はずれだったのだが、旅館のサービスがあまりにもなっていなくて、料金の割にえらく裏切られた気分で帰ってきた。その旅館があるのはワタリガニや牡蠣が名物の有明海に面した小さな田舎町。でも旅館が意外と大きくて立派だったので(見かけだけ)、通常私達が宿泊するホテルや旅館のスタンダードなサービスを当然予想した。そこでは火曜サスペンス劇場(いわゆる火サス)のロケも行われたらしく、ロビーには有名俳優の写真なども飾られていた。他にも丸太をそのまま蟹の形に彫り込んだ椅子やテーブルが置かれ、そのリアルな造形に思わず笑ってしまったが、田舎っぽいが蟹旅館という主張が全面に押し出されいて、都会から来た私達の心は妙にくすぐられた。

ところが部屋は海側に面して景色はまずまずだったものの、えらくうらぶれた室内だった。古くてあまり清潔な感じがせず、座布団や縁側の椅子もなんとなく薄汚れている。入り口脇にはユニットバスが備えられているのだが、ここも薄汚れていて照明の傘は割れたままだった。案内した仲居さんも、お茶を出したらさっさと下がって、TVやセイフティボックスの案内もろくにせず、そそくさと出て行った。お風呂の案内も言葉足らずだったので、あやうく露天風呂を見逃すところだった。

でもま、おいしい蟹を食べに来たんだし、蟹がおいしければいいか。

と思ったものの、これがまた小さくて、本来のワタリガニを知る母などは食事中ずっとぶーすか言っていた。おまけに食事を運んでくる仲居さんがまた寡黙で、ほとんど料理や食べ方の説明がない。お刺身の魚を尋ねても、「さあ、料理のことはちょっと・・・」と口ごもったりする。

おぇ!それでもプロかよ!!

と思わず怒鳴ってしまいたいところだったが、仲居さんたちは別に悪い人ではなさそうで、純朴な田舎の人という感じでそんな怒りも呑み込んでしまった。つまりこの人達が悪いのではなく、ちゃんと教育がなされていない、ということなのだ。田舎にある家族でやってるような小さな民宿なら、洗練されたサービスがなくても、気安く話したりできてそれで十分だと思うのだが、5階建てか6階建てかの大きな建物をおったてて旅館をやってるようなところが従業員にこんな教育をしていては、もう絶対ダメだ。田舎なら田舎らしい、無骨なサービスもあっていいと思うが、私達とろくにコミュニケーションもとらず、ただ事務的に作業をするだけでは客が気持ちよいはずはない。

接客業って、つくづく心が大切だなと感じた。
部屋も汚い、料理もイマイチ、でも私達は従業員の接客態度に一番がっかりさせられたような気がするからだ。料理や部屋だけでなく、やっぱり人は旅館に来ると何かしらふれあいを求めているのだ。部屋も料理も旅館という体制の問題だが、客と直接接する従業員の人達が愛想もくそもなければ気持ちの持って行きようがなく、尚一層不快スパイラルに陥る。田舎の温泉旅館がそう儲かることはないだろうから、部屋をきれいにしたり、立派な料理を出すことは難しいのかもしれない。しかしそこんとこを唯一カバーできるのが「もてなしの心」というサービスではないだろうか・・・。

食事を下げた後、おふとんをひきに仲居さんがやってきたが、私達はまだ8時かそこらで宴が終了するはずもなく、自分達でふとんをひくことにして断った。その後飲んだくれ一家は相変わらずそのペースを崩さず、お酒を飲みながらあーだこーだ言って、見知らぬ田舎町で一夜を過ごした。
そして明くる朝には朝食会場で朝ごはんを食べた。昨日の仲居さんがお給仕をしており、私達が席につくと、温かいごはんとおみそ汁を運んできてくれた。配り終えると仲居さんは恥ずかしそうに小さくつぶやいた。

「昨日はおふとんをひいていただいて、ありがとうございました」

自分達の仕事を客に任せたようで、気兼ねしたのかもしれないが、そんなことは私達が選んでやったことなのでちっとも気にする必要はないのだ。それより、なにより、ちゃんとお風呂の案内をし、料理の説明をし、「お疲れでしたね」の言葉のひとつもかける方がずっと大事なのですよ、と言いたかったが、私達は「いえいえ」と微笑みながら黙って朝食を食べた。それぞれの胸の裡ではもう二度と来ないだろうと呟きながら・・・。

こうやってお客は失われていくのであーる。
もてなしの心を失った旅館ほど、無意味な施設はない。だったらビジネスホテルの方がよっぽど居心地が良い。殊に温泉や海外旅行など、今の人達はいろんな所に出かけてサービスやもてなしを受け慣れている。田舎だからこれで良しとされるほど、無知ではないのだ。売り上げが上がらないと嘆く前に、経営者はもっとお客さんの気持ちになって努力する必要がある気がする・・・。

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宝という運命

2007年を迎えた。
といって特に感慨があるわけではないが、こうして一年一年、年が重ねられていることは、つまり確実に歳をとっていることであり、ある時気がついたら中身も外見も「え〜、もうこんな事態に!?」てな具合に驚愕してしまうのである。歳月というのは、自覚症状がなく進行するから怖い・・・。

そんな風にぼ〜っとしているうちに歳が明けている、毎年変わりばえのないお正月。今回は家族で回し読みしていた算命術の占いがなんだか頭にやきついている。若い頃とは違い、結婚や転職など占ってもらうようなこともないので、とんと占いなどには耳を傾けなかったが、この間改めてあなたの宿命は?運命は?とか言われると、ふと感慨を持ってその言葉を聞くことができたのだ。

私は星は独立独歩、あくまでも仕事に生きる星らしい・・・(*_*)。それは大抵どんな占いでも出てくる結果なので、今更驚きはしなかったが、若い頃はこれに反発して自らの運命は自らで変えるものだと思って、あまりその言葉を深く捉えることはなく、自分の道を突き進んだものだった。今改めて聞くと、なぜか素直になるほどと思える。この宿命を受け入れ、逆らわずに生きることがずっと自分らしくエンジョイできる人生になるのではないかとさえ思えてくる。

そう思うように至ったのは、生きていく中には目に見えないルールや条理、風向きなどがあると感じているからだ。それらを無視しても、物事は決して上手くはいかない。そんな目に見えないルールや条理を学び、従う上で自分を発揮することが実はとても大切だと最近思えるのだ。宿命もそのひとつだと思う。性格や才能、家族や環境などは自分が選べるものではなく、個々が生まれ持ったものだ。要するにそれは、自分では変えられないものがあるということで、既に人にはある程度舞台や役は与えられているのだ。そこからストーリーを作っていくのが自分だということ。そんな原理をふまえて生きることは、より良く生きるための知恵になると思う。

話が新興宗教めいてきたが、こんな考えに至るのも、歳を食って半ばあきらめが出てきたからかもしれない。しかしあきらめというのは、何か答が見えてきたからあきらめられるのだと思う。若さはスピードがある分、視野が狭い。年齢を重ねる毎にスピードが落ちていくと、周りの景色が見えてきたのだと思う。

なんてちょっと年寄り臭い話に落ち着いてしまったが、歳を取って周りの景色が見えてくるのも悪くないな〜なんて思ったりしている。ちなみに算命術で私は宝という星で、磨けば磨くほど輝くらしい。つまり原石のままではただの石、苦労すればするほど、光るということである。

では、今年もすすんで苦労を買って出るとしよう・・・(><;)。
相変わらずトホホな気分の新年である。

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